投稿者: Kumie Nakamura

  • 本当の自分

    今年のグラミー賞で4部門を制した、
    若干22歳のサム・スミス。

    初めてその声をラジオで聞いたときは
    女性だと信じていました・・・。

    ご本人はCDを出す前に
    ゲイであることを公表しました。

    CDを出した後に公表すると
    売り上げを伸ばすために
    隠してたんだ、と言われるだろう、
    それは本意ではない、という思いから
    事前に公表したのだそうです。

    素敵です。
    わたしはLGBTの人たちが
    そうじゃない人たちと
    同じように普通に生活できる
    環境、社会は大事だと思っています。

    米国のエレン・ショーという
    トーク番組で、司会のエレンが
    こう言ってました。

    「あなたが『痩せようとしたり、違うことを
    してみたり、いろんなことをしてきたけど、
    本当の自分になるまでこんなことは
    起こらなかった。』って言ってたのが
    すごくよかったわ!」

    多くの人が自分じゃない誰かに
    なろうとしてるよね、悲しいことに、
    とサム・スミスが答えていましたが
    このやり取りに感動しました。

    誰だって、本当の自分じゃない
    理想の自分を追い求めて
    (つまり、自分の外に何かを求めて)
    もがくけど、自分自身でいいんだよ、
    ってことですよね。

    本当の自分って、何?という方も
    いらっしゃると思います。

    BBSHの学生時代、よく先生方から
    「あなたは誰ですか?」という問いが
    ありました。

    でも、そのときは、この質問の
    意味の深さがわからずに
    「?」でした。

    本当の自分になったときに、
    宇宙と呼応して
    奇跡が起きるのかな。

    わたしにはどんな奇跡が起こるだろう。
    楽しみだな。

  • ささやかな幸せ

    先日、お誘いを受けまして
    二胡(にこ)の演奏会に
    お出かけしてきました。

    弦が2本しかないのに、
    どうしてあんなに多様な
    音が奏でられるのか、
    素人の私は感心しきりでした。

    月琴(げっきん)やギターも含めて
    22曲が披露されたのですが

    不思議なことに
    曲を聴いていると
    美しいヴィジョンが浮かびました。

    それは牛と人間が働く水田を
    夕陽が美しく照らしている様子だったり

    田舎の農村の畑を走り回るこどもの
    楽しそうな風景だったのですが

    それは、曲と演奏者が創り上げた、
    肉眼では見えない美しい芸術でした。

    曲目が進み、
    「見上げてごらん夜の星を」の曲が
    奏で始められると、
    今度は美しい夜空が広がりました。
    (私の第6チャクラで見てます)

    そして、突然わかりました。

    ああ、マロンは星になって
    私を見守ってくれてるんだ。
    いつも、よく見てくれてるんだ。
    必ず、見てくれてるんだ。

    よく、こどもの絵本とかで
    ありますよね。
    あれは本当なんだな、って
    感じたんです。

    変ですよね。でも、それは
    ひらめきにも似た、
    「ただ、そうだと知っている」
    という感覚です。

    疑う余地が全くない、
    ただ、とにかく、そうだと知っている、
    そんな感じでした。

    涙が浮かんできて、
    この演奏会に来たかいがあったな、
    このメッセージを受け取りにきたのかも、
    と感動しました。

    音楽はしばしば、天国からの
    メッセージを人間に伝える際に
    利用されます。

    言葉やメロディであなたに伝えたいことを
    はっきりとわかりやすく伝えられる
    一つの手段だからです。

    久しぶりに聞いた曲だったので、
    もう一度聞きたいと思って
    動画を探しました。

    夏川りみさんの歌もすごくよかったのですが
    添付ビデオの坂本九さんの笑顔に
    何とも泣かされました。

    彼の歌は魂に響くなあ、
    と改めて思います。

    歌詞も素敵です。

    ”小さな星の 小さな光が
    ささやかな幸せを歌ってる”

    ”ボクらのように名もない星が
    ささやかな幸せを願ってる”

    毎日の生活に
    ささやかな幸せを
    たくさん見つけられたら
    私たちはもっと
    幸せになれるのではないでしょうか・・・。

  • エゴと後悔

    野良猫2匹を見送った後に
    「(お看取りは)悲しいけれど、やめない。」
    という気持ちがよりはっきりしました。

    自分に出来ることで役立てるなら、
    というゆるぎない気持ちが生まれたからです。

    それから数日後、オスの野良猫が
    マロンの犬小屋で、自分の子供たち3匹に
    看取られて亡くなっていました。

    白と茶トラ模様の、優しい猫でした。

    朝見つけた時には、まだ
    体が柔らかかったので
    早朝に亡くなったのかもしれません。

    風邪をひいてはいましたが、
    食欲もあるほうで体も大きかったので
    以前の2匹ほど心配していなかったのですが・・・
    もしかしたら、心臓発作だったのかもしれません。

    メス猫やこどもたちの面倒見がとても良い猫で、
    よくガールフレンドを私に紹介しにきてくれました。

    時には、お腹を空かせたメス猫や
    こどもたちを従えて、
    「こいつらに何か食べさせてやって下さいニャ~!」
    と半分抗議(?)しに、
    ベランダにやってきました。

    ご飯を食べ始めても、メス猫や子猫たちが来ると
    いつもゆずっていました。
    そして最後に残りを食べるのです。
    だから、弱い猫たちに慕われていました。

    この猫は家の中で飼っている3匹のおじいちゃんです。
    箱に入れてあげると、3匹がすぐやってきました。
    「だれ?」「なに?」「誰のにおい?」といった感じです。

    柔らかい足を少し曲げて、まるまったところを見ると
    まるで寝ているかのようです。

    一緒に来ていたメスや幼猫たちが
    困るだろうな・・・と思いました。

    野良猫の世界では、
    強いオスがメスや子猫たちにえさ場を教えてあげて、
    他からやってくるオスを撃退(?)することで
    血縁はなくても、ファミリーのようになるからです。

    それにしても、
    最期を実のこどもたちと
    一緒に過ごせる野良猫が、
    いったいどれだけいるでしょうか。
    本当に不思議です。

    ・・・独りでなくて、よかった。

    犬小屋に入れていた湯たんぽで、
    少しは温かい夜を過ごせたかな。

    ああ、さみしいなあ。
    毎日のように見かけていたのに。

    でも、お疲れ様。
    みんなの面倒をみて、
    甘えさせてあげて、
    偉かったよね。

    そういえば、亡くなる2日前に
    家の中に入ってきたがったね。

    ご飯を誰にも取られることなく、
    ゆっくり食べたかったのかな。
    身体が弱っていたからね。
    ぐっすり眠りたかったのかな。

    私は飼い猫たちに風邪がうつるのが怖くて、
    あなたを家の中で看病しなかったんだ。
    それほど具合が悪いと思っていなかったのもあるけど。

    私は自分の恐怖心に負けて、
    あなたが必要としていたものを
    与えることができなかったの。

    ごめんね。

    私にもっと余裕があったらな。
    それとも、2匹の看病で疲れちゃったのかな。
    ほどほどにすればよかったのかな。

    何が良いのかなんて、誰にもわからない。

    何がベストかなんて、誰も知らない。

    どんな決断をしても、
    いつも小さな後悔が残る。

    ああしてればな、
    こうだったらな。

    家の中で看取った猫だって、
    最後の瞬間に一緒にいられなかった
    子猫がいる。

    どうして私は最期の瞬間にこだわるのだろう。

    マロンのときは独りでは絶対に逝かせない、
    必ず最期は一緒にいるんだ、と誓っていた。

    そうして、そうなった。

    彼は育児放棄された犬だったから、
    余計に私のエゴがそうさせたのかもしれない。

    あるがままでいいのだ、と言うのは簡単だけど
    誰かを失うかもという時には
    なかなかそうはいってられない。

    私のエゴはいつも理想を目指そうとする。

    そして、理想通りにできない自分を想像して
    行動する前にやめちゃうんだ。
    「やっぱり、無理だ。やめとこう。」ってね。

    最期に、家に入れてあげる勇気がなかった私を許してね。
    お兄ちゃん、最後まで優しかったね。

  • 与えること

    まずは、こちらの動画をどうぞ。

    2013年の作品なので、
    ご覧になったことがある方も
    多いかもしれません。

    コマーシャルなんですけどね、
    何度見ても泣きます。

    あの小さかった彼のお母さんは亡くなったのかな?
    だから医者になったのかな?
    自分が貧しかったから、貧しい人たちを診てあげているのかな。
    助けてもらった恩を忘れてなかったんだな。

    いろんな思いがよぎります。

    人は自分に与えられた
    無償の愛からの行為を
    忘れることはないのだろうな。

    その行為が無償の愛だと
    わからなかったとしても、
    忘れてしまったとしても、
    心のどこかに、いつも
    存在し続けるんだろうな。

    そんなことも思います。

    家で飼っている4匹の猫のうち、
    長女のさくらちゃんは
    私が悲しいとき、必ずそばに
    やってきます。

    別の部屋にいても、わかるのでしょうね。
    必ずやってきて、
    「ニャ~?(どうしたの?)」
    と話しかけてくれます。

    他の猫が毛玉を吐こうと
    ゼエゼエ言って身をかがめている時も、
    さくらちゃんは必ず「どうしたの?」と
    そばに行きます。

    本当の無償の行為は
    損得をまったく考えないで
    相手のために動けることでしょうか。

    それを何度も受け取れたら、
    きっとその人との間には素晴らしい
    信頼関係が生まれるのかな、
    と思います。

  • 見送るたびに

    庭に居ついている野良猫の兄弟。
    3匹はオスで、1匹はメス。

    メスは食べ物をめぐっての陣地争いがあり、
    大人のメスが子供のメスを追い払ってしまいます。
    けど、お兄ちゃんたちがいるので、
    1日1回は顔を見せてくれます。

    3匹はもうすぐ1年経つというのに、
    家の中で飼っているオス猫の真次郎の
    半分くらいの大きさしかありません。

    特に、小さいのは末っ子らしきオス猫。
    まるで4か月くらいの大きさしかありません。

    ・・・ありませんでした。

    実は前回記事を書いたフィオレを
    見送った数日後に、末っ子を看取りました。

    風邪をこじらせて、治らないまま、
    逝ってしまいました。

    3回目とはいえ、命を見送るのに
    慣れることはありません。

    ただ、自分が少しずつ強くなっているような
    気がします。

    ***********************

    末っ子は、3兄弟の面倒をよく見てくれる
    大人のオス猫から風邪をもらってしまいました。
    やっぱり、体力がなかったのでしょうか。

    猫の風邪は人間と違って、命とりです。
    飼い猫はすぐに病院へ連れて行けば
    助かりますが、それでも持っている体力に
    よるところが大きいのです。

    亡くなる4日前、ぐったりして、
    家の裏に一人でいた末っ子を
    見かねて家の中にいれました。

    とにかく身体を温めました。

    最初は少し食べたものの、すでに自力では
    食べられなくなっており、水もあまり
    飲みませんでした。

    おしっこするたびに鳴いて、
    タオルやトイレシートが汚れたことを
    知らせてくれました。

    几帳面ね。
    気持ち悪いよねえ。

    やがて、声が出なくなりました。
    おかしいな、と思ってみてみると、
    黄色いおしっこでお尻が
    濡れていました。

    ぬれティッシュできれいに
    拭いてあげました。

    亡くなる最期の日、なぜか外に
    出たがりました。
    兄弟がいるので、会いたいだろうと
    思い、出してあげました。

    不思議なことに、兄弟と妹、それに
    母猫までそろって、ベランダで待っていました。

    驚きました。
    もう、長くないことがわかったのだろうか。。。
    本当に不思議でした。

    末っ子はフラフラで、やっとのことで歩き、
    兄弟たちとあいさつしいました。

    やがてフラフラ歩きだし、
    兄弟が一緒についてきました。

    家の裏手で水を飲みましたが、
    帰りは一人であるけずに、小さく
    「ニャ~」と鳴いて、私の足首に
    すり寄りました。

    そっと抱きかかえて、もう一度
    兄弟たちとあいさつした後、
    温かい家に入りました。

    最期は夕飯の準備をしている間に
    独りで逝ってしまいました。

    多飲多尿になったので、心配していました。
    苦しそうに口を開けて息をしていたっけ・・・。

    何て呼ぼうかと思い、少し意識を集中してみると
    「コロンボ」という名前が浮かびました。
    白と黒トラキジ模様でした。

    最期を看取れなかったのに、
    以前と違って、自分を責めたり
    罪悪感を感じたりはしませんでした。

    きっと、自分は何も変えられない、ということを
    学んだからでしょうか。

    でも、私のエゴは「やっぱり残念」と感じていました。

    きれいな箱に遺体を入れて、一晩一緒に過ごしました。
    とは言っても、念のために寒い外に置きました。

    翌朝月曜に、市の清掃担当の人に
    取りに来てもらいました。

    最期に箱のふたをあけて、もう一度、顔と身体を
    優しくなでて、さよならの挨拶をしました。

    ペットでも野良猫でも、
    動物は法律上「もの」扱いなので
    ゴミとして扱われます。

    ************************

    見送った夜は、BHSP日本協会の仲間と
    スカイプ・ミーティングでした。

    話せるかなあ、とやや心配しながらも
    話せなければキャンセルしよう、
    と思っていました。

    始まってみると、集まったほかの人たちも
    なかなかグラウンディングできずにいました。

    一人ひとりがいろんなことを抱えています。

    私は完璧ではない自分を常に見せるように
    してきました。

    少なくとも、マロンが亡くなってからの
    半年間はそうです。

    そうすることで、彼らにも
    人前で完璧を目指すことをやめてほしいと
    思っているからです。

    私たちは、同じ人間です。

    命を助けることはできません。
    病気を治すことも、
    状態を変えることもできません。

    それらはすべて、クライアントさんご本人だけが
    なせることです。

    ヒーラーが良い意味で謙虚でありつづけ、
    自分が今、この瞬間にできることに
    フォーカスすること。

    出来ないからとあきらめないで、
    それでも今自分に何ができるのかを
    考えて実行するとき、
    その行為は無償の愛から生まれます。

    そして、相手を心から尊重して、
    完全な信頼を相手に与えることになります。

    マザーテレサの言葉にこういうのが
    ありました。

    「どれだけたくさんのことを成し遂げたかではなく、
    どれだけ小さなことに心をこめて、実行したかが
    大事なのです。」

    まったく、その通りです。

    たくさんのことを成し遂げるのではなく、
    大きなことを成し遂げるのではなく、
    目の前にある小さなことに集中する。

    それを繰り返すうちに、やがて、
    自分が想像さえしなかったものに
    繋がっていくのだと思います。

    命を見送るのは辛いけれど、それでも
    やめるつもりはありません。

    野良猫だって、最期くらいきれいにしてあげたい。
    最期くらい、自分にも愛される価値があったんだと思ってほしい。
    最期くらい、頼れる人間もいるんだ、と知ってほしい。
    最期くらい、誰かと一緒に温かい場所にいてほしい。

    私のエゴもありますが、
    「準備が出来たら、いつでも逝きなさいね。」
    と声をかけてあげたい。

    マロン、私が看取る猫たちのこと、よろしくね。
    道に迷わないように、迎えに来てあげて。

    そちら側に、頼れるあなたが居てくれて、
    良かった。