カテゴリー: 未分類

  • もし会えたら

    マロンが亡くなって3か月が経った。
    毎月、23日を前にすると心が痛む。
    同時に、自分のエゴについて感じずにはいられない。

    何もしたくなくて、ある日、
    DVDを借りてみた。

    海外ドラマを見ているうちに、ふと、
    英語の勉強になるなぁ、と気づく。

    イギリス英語もアメリカ英語も、
    ドラマから日常会話を知ることができる。

    Sherlockはとてもよくできたドラマだった。
    世界中で人気のわけがわかる。

    見逃していた映画もたくさん見た。
    その都度、映画を通して
    心に響くメッセージが届いた。

    映画に使われていた音楽も
    気に入ったものをダウンロードした。

    ああ、自分は芸術が好きだったのだ、と
    改めて思い出す。

    映画を見たり、
    音楽を聴いたり、
    舞台を鑑賞したり、
    写真を撮ったり。

    誰かの評価を気にせずに、
    ただ楽しむことを忘れていたことに
    気づかされる。

    リラックスしているつもりで、
    何時になったら何をしなくちゃ、と
    予定を立てている自分に気づく。

    「保証は何もない」。
    スーパーバイザーが言ってくれた言葉だ。

    夫婦関係も、
    親子関係も、
    恋人同士も、
    友人関係も、
    コンパニオン・アニマルも。

    幸せが永遠に続くという保証は
    どこにも、何もない。

    なのに、人は「関係」を求め続ける。
    なんて勇気がある動物なんだろう。

    マロンを亡くしてからは、
    人と関わるのはとても辛かった。

    スーパーバイザーは
    「たっぷり時間を取りなさい」、と
    勧めてくれた。

    そして、好きな人たちと距離を置くことは、
    お互いを守るためだった。

    悲嘆を奥底に抱えている人を
    100%そのままの状態で
    受け入れられる人は限られる。
    悲嘆は瞬間的に伝染するからだ。

    その瞬間、人はこう言う。
    「元気をだしてね。」
    「だいじょうぶ、乗り越えられるから。」

    けれど、自分で悲劇を乗り越えた人たちは違う。
    何も言わない。
    黙って、ただ、そばにいて、
    そして共感してくれる。

    縁があって家に来た
    4匹の猫たちは
    決してマロンの代わりではない。
    マロンの代わりは、どこにもいない。

    それでも、時々涙する私のそばにきて
    頬を流れる涙に興味を示して
    「だいじょうぶ?」と心配してくれる。

    マロンはこの子たちを
    決していじめたりしなかった。
    生きていたら、きっと、
    迷惑そうな顔をしながらも
    優しく接していただろう。

    マロン、会ったら、その
    ふかふかの体を
    しっかりと抱きしめたい。

  • 許し




    なぜ、私はこんなに悲しいのか。
    マロンがいないからだ。

    彼がいれば、幸せなのか?
    ・・・。

    私の幸せは彼に左右されているのか?
    ・・・。

    私の幸せは、外部の何かに左右されるのか?
    ・・・。

    ふと、この質問が頭によぎったその瞬間、私のハートが重くなり、長い長い間置き去りにしてきた何かを取り戻した。それは強さ、権威、パワー、私自身だった。

    私は彼を許していなかった。
    自分が悲しむことで、彼を許していなかった。
    私がこんなに悲しいのは、マロンがいないからだ、なぜいないのだ、と逝ってしまった彼を許していなかったのだ。

    何ということ!
    何ということ!

    では、悲しみはエゴなのか?

    あの時、逝くことを選んだのは彼なのか、それとも大いなる存在なのか?

    これは聖なる計画の一部なのか、それとも私が撒いた種を刈り取ったのか?

    残酷な宇宙の仕打ちと思っていた出来事は、いったい、何なのか?

    思考が現実を創るなら、私はなぜ、こんなことを望んでしまったのか?

    癒やしが手放すことなら、私はなぜ、いらないフロアランプではなく、よりによって愛するマロンを手放してしまったのか?
    神が我々を創ったなら、我々も神であると言った人がいる。もしそうだとしたら、私からマロンを奪った神を許せない。
    そして、神である私のことも許せない。

    許しとは、踏みにじられたすみれの花が、自分を踏みにじった靴のかかとに放つ芳香である、とマーク・トウェインは言った。

    私は、すみれの花になれるだろうか。
    それとも、もう、すみれの花なのだろうか。






  • 最期の時



    最期の夜が思い出された。

    ふと、思った。
    私は、よく頑張った。よく頑張ったのだ。
    私はたった一人で彼を看取った。絶対独りでは行かせない、となぜか理由はわからないが、以前から固く誓っていた。

    彼からひとときも離れたくなくて、実家に電話さえしなかった。トイレにさえ行くことを忘れた。夜中の午前二時十五分に看取って、お葬式が終わって帰宅するまで、一睡もしなかった。というより、眠れなかった。文字通り、私は彼につききりで看取ったのだ。

    よくがんばった、私。よくやり遂げた。
    そして、泣きながら自分をハグした。両手を肩に巻きつけて、泣いた。
    本当によく頑張った。よくやった。
    たった一人で、心細かったね。
    わからないながら、よくやったね。
    動けなくなってしまってから、腕枕をしてあげられた。
    一人で抱えて、柔らかい布団の上に運んであげた。マロンはもう、力が入らなくて、いつもよりずっと、重く感じたね。
    胃腸炎で、痛かっただろうお腹をさすってあげた。お腹や胃の痛そうなところに手を当ててもあげた。
    その間、ずっと心細かった。本当は誰かに一緒にいてほしかった。
    でも、耐えた。たった一人で。
    私、よくがんばったね。
    怖かったね。よくがんばった。
    そして、泣いた。
    後から後から、涙があふれてきた。
    私は自分に厳しすぎたのだろうか。

    あんなことも、こんなことも一緒にしたかった。
    あそこに行って、こんなことをして、もっともっと思い出を増やしたかった。
    もっと食べ物に気を使ってあげていたら、もっと早くアレルギー検査ができる遠くの動物病院に連れて行っていたら、もっと、もっと・・・。

    こんな時、後悔だけが頭を覆いつくす。マザー・テレサは、どれだけ沢山のことが出来るかではなく、小さなことを、心を込めてやりなさいと言っている。どれだけ沢山できたかではない。
    それなのに、もっと行動できたはずなのに、もっと調べたらよかったのに、もっと、もっと・・・。エゴがどこまでも私を責める。
    そうせずにはいられなかった。
  • ラジオ




    マロンがいなくなってから、家は恐ろしく広くなった。
    信じられないほど広くなって、どこで何をしていいかまったくわからなくなった。
    実際には同じ家なのに。

    彼のエネルギーがいかに大きかったか、いかに私の中で大きな位置を占めていたかに改めて気付かされ、愕然とした。どの部屋にも、彼の美しいエネルギーが満ちていた。なのに、実物はいない。どこを探してもいない。

    部屋の空虚感をなくしたいと、ラジオをつけ始めた。音が何かを満たしてくれるかもしれないと思った。

    外出したものの、急に怒りに襲われ、帰宅することが何度も続いた。玄関に入るなり、泣いた。
    スーパーに行けば肉売場に近づけなかった。彼のためにいつも何がいいかな、と彼と一緒に食べられる献立を考えながら選んでいたからだった。魚売り場も、野菜売り場も同じだった。

    動揺して帰宅して、腹が立って、そして号泣した。なぜ彼が逝かなければならなかったのかわからなかった。なぜ、という理由はまだわからなかった。そして、理由がわからない不明瞭さ、不安を、はっきりさせて安心したい自分の中の自分は、猛烈に腹を立てていた。
    ああ、どんなに泣いてもマロンは帰らない。そのとき、朝からずっとつけているラジオから、「いつもあなたのそばにいるよ」という英語の歌が流れてきた。
    ふっと一瞬、怒りを忘れた。

    猫が私の羽布団に粗相をしたある朝には、「残念だね」という英語の歌が流れてきた。せつなくも、ちょっとユーモアがあって助けられた。
    朝ごはんのときに猫が膝に乗ってくることが恒例となったので、去年も使っていたひざ掛けを出してきた。ラジオからは何かの歌が流れていた。マロンを思い出して、何気なくひざ掛けを見ると、彼の白い毛が一本、そこにあった。まだ一緒にいるよ、と教えてくれているようだった。





  • 何のために生きるのか?

     四七日(よなのか、4回目の7日間=28日目)を過ぎても、自分が生きている意味を探し、あの子が逝った理由を探し続けた。どうしても納得がいかなかった。

     自分は何をすべきなのか、これからどう生きていけばいいのか。私のキャリアは、彼が人生の中心にいてこそ培われる予定のものだった。

     なぜあの時だったのか。国道でふらふら歩いていたのを見つけてから3年だった。

     なぜ私がお見取りをする最後の飼い主だったのか。

     私は彼の治療方法や動物病院をどのようにして選択すべきだったのか。

     誰も答えをくれない、決して答えが見つからない暗闇の中を、あてなくさまよっていた。答えはないと、どこかでわかっていた。けれど、そうせずにはいられなかった。そしてさまよいながら、理由や原因がまったくわからないことに対して、神への怒りを猛然と感じた。励ましてくれる友人やヒーラーや近所の人たちに対しての怒りもこれが発端だと気づいていた。

     なぜ神様は私からマロンを奪ったのか?予定外に、こんなに早く。
     私はそんなにダメな飼い主だったのか?
     そんなにマロンにふさわしくない飼い主だったのか?
     私はどうしたらよかったのか?

     神様はニール・ドナルド・ウォルシュが「私はなぜ生きているのですか?」と質問したときに、こう言った。
    「神として生きなさい。」

    そして、同じ質問に、エックハルト・トールは言った。
    「あなたは今のあなたという形になって存在している。それは私(神)があなたを通して私(神)自身を知ることが出来るからです。生きとし生ける物すべてを通して私(神)を知ることができるからです。」

     私が泣いて悲しむから、神は「亡くした悲しみ」という感情を知ることができるのだ。


    あの子がいなくなって初めてわかることがたくさんあった。

    あの子の代わりは決していない。これからも決して現れない。どんなにほかの犬や猫達が可愛くても、彼の代わりなど存在しない。あの子は唯一無二の存在だったのだ。彼が私の中でどれだけ大きな位置を占めていたことか。

    お金を何百億円積んでも、あの子は戻らない。お金なんてその程度のものなのだ。
    広い庭の家があっても、あの子がいなければ意味がない。
    彼がいなければ高原のペットペンションへ行く計画も無意味なもの。

    どうしてこんなことが、彼が生きている間にはわかっていなかったのだろう?



    なぜ、彼がまだまだ生きると思っていたのだろう?
    なぜ、彼を「まだ六歳」と思っていたのだろう?多くの人が言った、「まあ、まだ六歳だったの。若かったのにね。」

    私もそう思っていた。おかしなものだ。誰だって、今日死ぬかもしれないのに。
    朝ごはんを一緒に食べた人が、昼には棺桶に入っていたって何もおかしくない。それが「普通にありえること」なのに、なぜ自分の世界ではそんなことは起こらないと信じて、人は毎日過ごしているのだろう?