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  • 三匹の子猫と私(1)

    その声は、物置から聞こえてきました。物置は、原っぱの近くの、少し小高いところに2つあります。


    ぴゃー、ぴゃー、という子猫の高い鳴き声。私には母親を探して呼んでいるように聞こえました。親猫が、あそこで子猫を生んだのでしょうか。それとも、誰か人間に捨てられたのかもしれません。愛犬と散歩しながら、声の聞こえる物置をちらちらと見ながら、通り過ぎました。


    3日目。声が聞こえていると安心するようになりました。まだ生きてるんだな。でも、あんなに鳴いていたら、誰かに見つかってしまうな。母猫はミルクをあげているのかな。


    4日目。ついに物置を見てみることにしました。そおっとドアをスライドすると、手のひらに載るくらいの子猫が3匹、真ん中くらいにかたまっていました。


    子猫たちは、こちらを驚愕の表情で見ていました。生まれて初めて見る、犬の顔。(私の愛犬です)驚きのあまり声がでないまま、口をパクパクさせて「にゃー、にゃー!」(だれだ、来るな!)と言っていました。


    ドアの隙間から外に出てこないように、あわてて閉めました。人間や犬の匂いがついてしまうと、母猫が警戒して近寄らなくなってしまうかもしれません。母猫のために、猫が通れるくらいの隙間は空けておきました。

    見てわかったことは、物置には古い畳がしいてあって、私が想像していたより居心地が良さそうだということ。そこは何年も使われていなくて、誰かが入った跡がないということ。つまり、猫がそこで赤ちゃんを産んだ可能性が高い、ということでした。


    私は少し、安心しました。母猫がたぶんいるのだろう、と思ったからです。

    その後数日、気を付けて聞いていると、子猫たちは朝や昼間は鳴いていないことに気づきました。夕方になると鳴いていたので、きっと、その頃おなかが空いていたのでしょう。

    近所のお散歩仲間たちも気づいていて、「ああ、あそこで声がするよね。」とお互い話をしました。話の最後はきまって、「誰かに見つかって、捨てられなければいいけどねえ。」でした。自分たちは犬を飼っていて、正直手いっぱい。子猫が可愛いのは認めるけれど、飼う余裕がない、というのが本音でした。

    また、近所で猫を外飼い(えさだけ与えて、家の中には入れない。ベランダに段ボール箱等を置いて、猫の家にしている状態。)しているお宅があって、その猫たちが自分たちの庭に入ってきて、トイレをしていく、という不満を抱えてもいました。

    賃貸の場合、猫を飼うには気を遣うことが多いですよね。ふすま、柱、床、たたみなどでの爪とぎ。これは猫の本能なので、やめさせることは出来ません。爪とぎを買って置いてみたところで、自分が気に入らなければ使ってくれません。

    夏は窓を全開にする家が田舎では多いので、子猫の鳴き声がうるさい、という場合もあります。おまけに猫は夜行性です。

    外に出たいとニャーニャー鳴けば、出してやりたいのが親心。でも、オス猫の場合はそれが領地争いの始まりになるので、一度出すと、再び出すことになります。そうすると、他の家に入って行って、トイレをしてしまいます。

    犬のうんちも匂いますが、猫のそれは犬の比ではありません。うちも玄関のアプローチに堂々とされていたことが数回あり(苦笑)、探し出すまで本当に苦労しました。

    よって、本当に、本気で猫を飼うなら、ずばり、「室内飼い」しかないのです。そして、犬のように小さな首輪とリードをつけて、ときどき外に出してあげるしかありません。そんなの、可哀想!と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、毒だんご等をまいて猫がこないようにする人間がいることを思えば、室内飼いにするのが無難です。

    だいじょうぶかなあ、と心配する日々が、それからも数日、続きました。

  • 今日は、いまの私。

    次の記事も、次の次に書きたいこともちゃんとメモしてあるのですが、なかなか言葉が始まりません。

    子猫たちのこととか。
    むくどりのこととか。
    つばめたちのこととか。
    魚屋のおじさんのこととか。(笑)

    ネタは他にもたくさんあるのですが、わたしの中でなかなか始まりません。
    結果がないんです。(ネタなのに?)で、書きにくいなー、と感じる自分がいます。
    でも、書きはじめているので、もう少し待っててくださいね。

    ここを訪れてくださる方が少しずつ増えてきて、嬉しいです。

    わたしはツイッターをしていて、おもに、どうぶつ関連の方をフォローしています。そういう方のつぶやきを見ていると、本当にどうぶつ愛護に熱心な方が多くて、頭がさがります。そして、感謝したくなります。特に、行政や自治体、法律がらみの案件は変化するまでが本当に大変なのですが、あきらめずに行動を続けていらっしゃる方々に心から感謝したいと思います。

    私自身も愛玩動物飼養管理士の資格(いまは2級です)を今年1月に取得しました。BBSHを卒業見込みとなった時点で、自分らしく手当てヒーリングをやっていくためには、どんなことが出来るかな?と見直し始めた矢先、さまざまな情報を検索していて、同資格のことを知りました。

    何もしないよりはマシ、それに動物の解剖学をもっと勉強したいと願っていたころでした。おかげさまで、法律から飼育方法まで、多岐にわたって学ぶことができました。犬猫のほかに、ウサギ、ハムスター、鳥類、爬虫類まで。

    自分で飼ったことがあるのは犬猫までなので、現在のところは手当てヒーリングも犬猫で承っています。けれど、それ以外の動物をヒーリングしてほしいとご希望のお客様がいらっしゃって、そういった動物たちをまだヒーリングした経験がない私でもかまわない、とおっしゃってくださる方がいらしたら、ぜひお声がけいただきたいと思います。出来る限りのことをさせていただきます。

    愛犬をヒーリングするたびに思うのは、どうぶつの素直さとエネルギーに対する敏感さです。必要なら受け取り、十分になったら、すくっと起き上がったり、向きを変えたりして「もう、いいよ。」と知らせてくれます。3分のときもあれば、10分のときもあります。

    自分のペットに人生相談をする人が全体の85%いる、という記事をインターネットで読みました。わたしは以前からこれには賛成できません。彼らは言葉を理解しなくとも、そのエネルギーに敏感に反応します。ネガティブな相談をして、飼い主は助かることでしょう。相手は無条件の愛で飼い主を受け止めてくれますから。

    でも、そのペットはどこへ相談するのでしょうか?

    「最近、わたしの飼い主は愚痴ばかり聞かせるんです。会社のことや、同僚のこと、果てはガールフレンド(ボーイフレンド)と別れたとかなんとか・・・。もう、耐えられません!」

    もちろん、私のところへ来てくださっても構いませんが(笑)、飼い主さんには、ペットにもストレスがたまるということを忘れて欲しくはないのです。だまって聞いてくれている、目の前のペットがあなたのネガティブなエネルギーの影響を何ひとつ受けていないと思わないでほしいのです。

    彼らの無条件の愛は、病気になって現れます。ある日、突然、大病をわずらうわけではありません。(事故以外は)人生相談(内容にもよりますが)や愚痴は、ネガティブなエネルギーを呼び、幸運を呼んできてくれるわけではありません。

    20代、30代という働きざかりの人たちが、自ら命を絶つことの多い社会。米国のように、働く人があたりまえのようにカウンセラーへ(愚痴を聞いてもらうために)通ったり、メンターやコーチ、指圧師やマッサージ師、セラピストなど数人を自分の「お抱えチーム」として持っていることは大事です。

    みなさんも、どうか、良いチームを創り上げてくださいね。

  • 無償で親切にする

    梅雨で雨が続いています。沖縄県が梅雨明けしたそうで、九州ももうすぐ梅雨明けかもしれません。風水の一説によると、雨の日は陰の気が強くなるため、からだがバランスを取ろうとかっかしやすい(陽の気)そうです。くれぐれも喧嘩などなさらないように。元に戻りにくいそうですよ。

    雨の朝も、愛犬との散歩はかかせません。雨が小降りになったところを見計らって、「それ~!いまだ~。」と出かけます。

    いくつかあるお気に入りの散歩ルートから、彼が選んだ道をおもに歩きます。愛犬が立ち止まってにおいをかいでいたり、トイレを済ませている間などは、わたしの傘を斜めにして、彼が濡れないようにします。雨がひどいときは犬用レインコートも着ますよ。

    でも、そんな努力もむなしく、愛犬はたいがい、びしょ濡れ。小雨や霧雨ならまだしも、途中から本格的などしゃぶりに合ったりすると悲惨です。先日、そんなどしゃ降りにあってしまいました。これはいけない、と道を急いでいると、彼が小さな雨宿りスペースに駆け込みました。

    そこは、商店街の端っこにある普通の家で、幅50センチ~60センチくらいの軒下にコンクリートが乾いているスペースがありました。愛犬が見つけたのですが、なぜ、乾いているスペースがわかるのか、不思議です。犬は近眼であり、色も青や緑系の色以外はどのように見えているのか、はっきりとはわかっていません。灰色のコンクリートは何色に見えているのでしょうか。

    一緒に軒下へ来たものの、人間が濡れないようなスペースはありません。私は傘をいったん下に置いて、お散歩用のポシェットに入れていたハンドタオルを取り出しました。私の愛犬はなぜか、顔や頭が乾くと落ち着くようで、それで愛犬の顔をふきました。

    ハンドタオルはあっという間にびしょ濡れになり、ぞうきんのように絞ると「ジャー!」と勢いよく水が流れました。と、その時。

    玄関のドアがガラリとスライドして、目のぱっちりした女性が顔を出しました。「しまった!」。もし、犬が嫌いな人だったら、置いてある植木鉢や花などにおしっこされるのをいやがります。その家にはきれいに手入れされた赤や白の花がたくさん置いてありました。

    「すみません、すぐ行きますので。」怒られると思い込んだ私はあわてて愛犬を引っ張りました。ところが、その女性は大きなタオルを差し出して、「どうぞ。あの、返さなくていいですから。ちゃんと洗ってありますから。どうぞ。」と言ってくれたのです。

    「?!」。この土地に引っ越してきて、犬を連れている時にこんな親切な言葉は初めて言われました。田舎では犬を番犬として飼う人が多いので、人間より下の召使い、くらいの感覚の人が多いのです。

    わたしは驚きのあまり、一瞬言葉がでませんでした。彼女の親切をすぐに受け取ることができず、つい、「いえ、すぐ行きますから。」と答えてしまいました。彼女は「本当にどうぞ。返さなくていいですから。まだ、雨宿りしていってください。」と更に言ってくれたのです。

    「それじゃあ、お言葉に甘えて・・・ありがとうございます。」やっとのことで、彼女の親切を受け取ることができました。受け取ったタオルはふわふわで、愛犬の全身を拭くことができるくらいの大きなものでした。


    しばらくすると、雨が小雨になって、愛犬が急に歩き出しました。ちょっとホッとしました。家を通り過ぎる前に、会釈してから通り過ぎました。誰もいなかったのですが、本当に、感謝でいっぱいだったので、そうせずにはいられませんでした。

    愛犬は毛皮をきれいに拭いてもらったからか、急に足取りも軽くなって、スタスタと早足で家に向かってくれました。私はといえば、涙でいっぱいでした。

    魂がふるえるように、涙が次から次へと流れてきました。

    「人の温かさを受け取るっていうのは、何て素晴らしい体験なんだろう。」そんな気持ちでいっぱいでした。BBSHの4年生だったとき、クラスメートの前で行った自分の発表のときにも、同じ気持ちになりました。だまって、わたしのすべてを受け止めて、その場に(心も)一緒にいてくれた仲間たち。

    そういえば、災害のときに何キロも家に向かって歩いている途中で、無償でおにぎりをもらった人の話を本で読みました。あの人たちは、きっとこんな気持ちだったのだろうな。

    見ず知らずの人に、本当に、心から親切にしてもらう、という体験。そして、それを受け取る、という体験。


    何て、温かいんだろう。


    PCのようなバーチャルな世界では決して味わえない、人生のひとこま。こういう体験をするために、人は生きているのかもしれません。

  • 責任を愛と言い換えてみる

    大人には責任がともなうことが多いですね。いや、というよりも、日常のほとんどがそうではないでしょうか?親なら、子どもに対して。働く人なら、部下や自分の仕事に対して。私のように動物を飼っていたら、飼い主としてペットに対して。

    「責任があるから、ちゃんとしなくっちゃ。」
    「飼い主の責任だから、動物病院へ連れて行かないと。」
    「親の責任なんだから、子どものしつけをしっかりしないと。」
    こんな言葉はなじみやすいのではないかと思います。そうして、人はもちろん、自分の人生に対して、全責任があります。

    この、「責任」という言葉を「愛」という言葉に言い換えてみたら、どうなるでしょうか。

    「愛があるから、ちゃんとしなくっちゃ。」って、文章がしっくりマッチしてない気がしませんか。「愛があるから、ちゃんとしよう。」このほうが、しっくりくる気がします。(まあ、個人的にですが)

    「飼い主の愛だから、動物病院へ連れて行かないと。」
    「飼い主の愛だから、動物病院へ連れて行こう。」

    「親の愛だから、子どものしつけをしっかりしないと。」
    「親の愛だから、子どものしつけをしっかりしよう。」

    どうも、「責任」という言葉は人にプレッシャーを感じさせやすいように思うのは、私だけでしょうか。日本人は特に真面目な性格なので、そう思いやすいのかもしれません。

    責任があるから「やらなければならない」というスタンスになりやすいことって、仕事では多々あるような気がします。でも、これが「愛」という言葉に置き換えられたなら、仕事っぽくは感じないかもしれません。仕事なのに、ちょっと不真面目に聞こえるというか、そんな軽くていいの?みたいな。(笑)

    仕事を軽くこなしては、いけないでしょうか。
    子どものしつけを、軽くこなしてはいけないでしょうか。
    動物病院へ行くことを、軽くこなしてはいけないでしょうか。
    重くある必要は、あるでしょうか。

    責任を愛と言い換えてみると、今まで重く感じていたものが、軽く感じられるかもしれません。今まで大変だと感じられていたものが、簡単に感じられるかもしれません。今まで、できないと思っていたことが、できるようになるかもしれません。

    責任って、愛があるから、取ろうとするのかもしれません・・・。

  • のら犬と私(5)

    何とも居心地の悪い目覚めでした。犬が逃げ去った翌朝、のろのろと起きだして、愛犬の散歩の準備を始めました。そうだ、散歩しながら探してみよう。まだ、あきらめきれませんでした。

    きょろきょろしながら、愛犬に引っ張られるままのコースをよたよた歩きながら探しました。似た犬はいないかな?お腹すかせていないかな?いったい、どこに行ったんだろう?

    結局、朝の散歩でも、夕方の散歩でも、あの犬は見つかりませんでした。「はあ~。」ため息ばかりがでます。数日間、こんな散歩が続きました。

    ある日の夕方、愛犬を連れて歩いていると、ご近所さんが声をかけてきました。「犬は元気?」「ええ、おかげさまで。結構、食べるようになったんですよ。」「あら、そう。やっぱり、お腹が空いてたんでしょうねえ。だって、細い足してたものねえ。」「?」。話がかみ合わないことに気づいて、少し沈黙していると「ほら、あの犬よ。その子(私の愛犬)じゃなくて、この前、保護したって言ってた、あの犬よ。」ああ、痛いこと聞かれちゃった。「ああ、あの犬・・・あの犬ねえ、逃げちゃったのよ。捕まえた日の夜にねえ。」そして、事の次第を話したのでした。ご近所さんは「あらあ、それはボケてたのかもねえ。」と言って「まあ、しょうがないわよ。もう、あなた、その子がいるからいいじゃないの。」となぐさめて(?)くれました。

    そう。愛犬は私にとって人生の道のりを一緒に歩いてくれる、大事な大事な友人であり、相棒であり、先生でもあります。この子を幸せにすることは、私にとって大きな意味があります。でも・・・。あの犬と納得できない別れ方をしたことが、小さく鋭いとげのように、私の心に残っていました。

    人間はなぜ罪悪感を持っているのでしょうか。自分を責める、この小さいけれど、しつこい声。子どもの頃に、大人が自分(個人)の価値観が正しいと信じて、子どもに投げかけてきた、命令口調の声。
    「どうして、逃がしちゃったの?」
    「だめじゃないの、ちゃんと気を付けていないと。」
    「あなたのせいよ。どう責任とるの?」
    「だからダメなのよ。しっかりしないと!」
    「もう、どうしようもないわね。あきらめるしかないじゃない。」
    「泣いたって駄目よ。まったく、しょうがないわね。」
    こんな声が私の心に響いては消え、響いては消えてゆきました。

    「自分にはどうしようもないことが、人生には起こる。」これが、私の中の先生の声でした。そう、子どもにも、大人にも、自分ではどうしようもない出来事が、確かに人生には起こるのです。
    電車の遅延。
    飛行機で出る急病人。
    会社の方針転換。
    そして、誰かの死。
    これらからいつも学ぶのは、「自分には力の及ばないことが、ある。」ということです。自分には出来ないことがある。そう認めるには勇気がいります。でも、それが現実です。ジブンニハ、デキナイコトガアル。だから、できなかったこと、できないことを責める必要はないのです。ただ、できなかった、と認めるだけで十分なのだ。そう、思うに至りました。

    今でも「あのときは、残念だったなあ。」と思い出すことがあります。けれど、あの犬にとっての最善は、やはり、ここから逃げ出すことだったのでしょう。