You can be only YOU

  • 一日だけの飼い主

    実は、ここで先日書いた庭の野良猫が
    17日に亡くなりました。
    前日夜に、とても具合が悪そうなのを
    見かねて、家の中に入れて看病しました。
    1日だけの飼い主でした。

    おしりと後ろ足がうんちにまみれていて、
    ものすごく臭くて、ネチネチしたものが
    体のあちこちにたくさんついていて、
    抱え上げる時はゴム手袋をしました。

    無理を承知で最初にシャワーで流しました。
    嫌だったろうに、もう、自力では動けなかったので、
    されるがままでした。

    よく乾かしてあげたタオルに臭いが移って、
    全部捨てました。

    うちの中にいる4匹に
    病気がうつらないようにとも考えました。

    よく観察してみると、舌の中心の一部に
    潰瘍が出来ていて、そこだけ
    真っ赤になっていました。

    ああ、だから食べるときに、あんなにこぼしていたんだ。
    これは痛いよなあ。。。
    けど、お腹すいてたんだよね。
    食べないと、ほかの猫に負けちゃうもんなあ。

    乾いた毛皮はフワフワでした。
    ネチネチで細く固まったしっぽは
    信じられないほど太く立派で、
    きれいなシマシマ模様が入っていました。

    生まれて初めて、洗ってもらったよなあ。
    本当はこんなにフワフワの毛だったんだなあ。
    ほーら、尻尾も立派になったよ。
    。。。好きで、あんなショレショレにならないよなあ。

    どうやら臭いのもとは、潰瘍のようでした。
    すでに飲むことさえできなかったので、
    ピペットで少しずつ、ささみスープをあげました。

    その日のうちに亡くなるかな、と思っていましたが
    一晩がんばりました。

    けれど、少しずつ顔に死相がでてきて
    (まばたきをしなくなり、遠くを見ているような目)
    胃の中味を少しずつ戻すようになり
    (すでに、水だけ)
    何と言っても体が冷たくなってきました。

    湯たんぽでお腹を温めて、
    両手でかわるがわる後ろ足と前足を
    温めました。

    ここのところ、寒かったからなあ。
    夜の間に、具合が悪くなっちゃったかな。
    けど、この足が腫れてきて今日で3日目だよねえ。

    たんこぶのような足をそおっと持ってみると、
    何と、くぎであけたような深い穴が開いていました。
    周りの皮膚が破けたようにペロンと
    さがっていました。

    どこでこんな怪我しちゃったんだ。
    2~3日見なかった、あの時かな。
    どうしてこんな目にあうんだろうなあ。
    もう、十分大変なのに。。。

    生まれて初めて人間と過ごす夜かな。
    とにかく、この寒い夜を風のない家の中で
    暖かく過ごせて良かった。

    夜中、何度も苦しそうに鳴きました。
    そのたびに声をかけて、足や身体をさすって
    温めました。

    ときどき、前足と後ろ足が走るように動いて、
    どこかに行っているみたいでした。
    ストレッチするように、何度か脚を
    伸ばしたこともありました。

    そろそろかな、と覚悟しました。
    動物がなくなるときには、
    こういう行動が見られるのを
    マロンを看病したときに目にしていたからです。

    朝が来たときには、うれしかったです。
    時計は4時半を指していました。
    ・・・マロンは2時15分に亡くなったっけ。

    やがて、曇りではありますが、
    朝日で明るくなってきました。

    「よくがんばったねえ、朝だよ。
    おはよう。」
    そう言うと、「ニャ~」と返事をしてくれました。

    「朝ごはん作ろうねえ。
    よくがんばったねえ。
    明るくなってきたよ。」

    そのうち、うちの4匹の猫たちも
    台所の物音を聞きつけて、
    ドタバタ始まりました。

    ちょっと見てこよう、と思った時に
    小さな声を聞いたような気がしました。

    猫のほうを見ると、鳴きはしませんでしたが
    何となく「行かないで」と言われた気がして
    そばに近寄りました。

    もし、部屋がめちゃくちゃになっていたら
    後から片付ければいいことだ。
    そう思いました。

    そばについていると、
    小さく苦しそうに息を吐き出しました。

    しばらくすると、
    前足だけがどこかへ歩いていくように
    動き始めました。

    でも、その足にもう、力はありませんでした。

    その後、前足を3回縮みこませて、
    伸ばして、と繰り返した後に
    小さくハァ~、と息を吐いて、
    逝きました。

    「まだ(身体に)いるの?もう出たの?」

    それまでは、そおっとお腹を触ると、
    小さく小さく脈打っているのが
    わかったのですが、
    今度はわかりませんでした。

    念のために、聴診器で3か所確認しましたが
    無音でした。

    よく朝まで頑張ったなあ。
    ・・・もしかしたら、もっと生きたかったのかな。

    一日だけだったけど、
    飼い猫になったね。
    暖かい家と独りじゃないことを
    経験できたね。

    それに、どんなに臭くて、汚れていて、
    病気でも、自分はまだ
    愛される価値があったんだ、っていうことを
    経験できたかな。

    しょれしょれ、ありがとう。
    最後に看病させてくれて、ありがとう。
    ・・・しょれしょれなんて名前、
    嫌だよなあ。

    少し意識をしていると
    「フィオレ」という言葉が浮かびました。
    イタリア語で花、という意味です。

    女の子みたいな名前じゃないの、と
    話しかけました。
    オス猫だったからです。

    でも、ちゃんと飼われていれば
    花のように愛らしい猫だったのかも
    しれません。

  • 愛の日に寄せて


    昨日はバレンタインでしたね。私はInstagram(kumienakamura)をやっているのですが、そこでも多くのHappy Valentine!というメッセージを目にしました。海外にいる友人にとっては私の15日が彼らの14日だったりするので、2日間の間、Happy Valentine’s Day!というメッセージを多く受け取り、心が温かくなりました。

    今朝のことですが、私の家の庭にオスの野良猫がやってきました。毛は汚れて、体や足のあちこちで抜けてしまい、皮膚が見えています。この時期は寒いだろうなあ、と気になりました。

    さらによく見ると、前足の一部がたんこぶのように大きく腫れて、痛みから3本足でゆっくりと歩いているのに気づきました。おまけに体全体がものすごく臭います。

    けれど、この野良猫が教えてくれたことがあります。それは、どんなにひどい人生でも、その人(猫)には「生きる価値がある」ということです。

    私はマロンを亡くしてから、自分を責め続けていた時期がありました。悪いことが良い人(動物)に起こる事実を経験しました。許せない自分をついに許せたのは、「こんな自分でも、まだ世の中に提供できるものがあって、それができる限り、まだ生きている価値がある」からだと気づいたからです。

    それは自分自身に対する「信頼」を受け取れた日でした。自分は確かに生きる価値があることを「信用」できた日でした。庭の野良猫はそれを思い出させてくれます。

    愛の日に寄せて、すべての生き物が愛される価値があると思えますように。
    親切や真心、愛を受け取る価値が自分にはあるのだ、と思えますように。

  • 小さな存在

    人間とは、何て小さな存在なんだろう。
    愛する存在を助けることさえできない。

    助けられない。
    治せない。
    変えることもできない。

    なのに、なぜ誠心誠意、文字通り全力で
    誰かを助けようとするのだろう。

    ヒーラーは、クライアントを助けることなどできないのだ。
    助けられない。
    治せない。
    変えることもできない。

    なのに、なぜ誠心誠意、さらには期待さえ抱かずに
    クライアントのために全力を尽くすのだろう。

    ヒーラーとは、何てかけがえのない存在なのだろう。

    何とか助けたい、などと思わずに、
    例え相手が肉体を離れることを選んだとしても、
    それが最善なのだと
    相手のために喜べる存在。

    それでも、人として、両極端な思いは同時に存在する。

    甘いものと苦いもの。
    白と黒。
    自分を責める声とよくやったと褒める声。

    これらの両方を認めることができるからこそ、
    辛く悲しい別れを体験しながら、
    今までお疲れ様、と相手を思いやる気持ちが
    同時に存在する。

    ヒーラーである前に、人間とは、
    限りなく小さな存在で、
    短い一生において大したことはできない。

    それでも、その一生は無意味ではない。

    私はマロンを救うことは出来なかったし、
    変えることもできなかった。

    けれど、その悲しみを細胞の一つ一つで体験すると
    (良い意味で)自分が大した存在ではない、と
    認めることができるようになった。

    謙虚さを持ちながらも、決してあきらめない強さを
    同時に持つことができるようになった。

    相手が変わることを期待せず、
    ただ自分が正しいと信じることを
    ひたすらやり遂げる。

    それができれば、短い一生でも
    十分ではないか。

  • もし会えたら

    マロンが亡くなって3か月が経った。
    毎月、23日を前にすると心が痛む。
    同時に、自分のエゴについて感じずにはいられない。

    何もしたくなくて、ある日、
    DVDを借りてみた。

    海外ドラマを見ているうちに、ふと、
    英語の勉強になるなぁ、と気づく。

    イギリス英語もアメリカ英語も、
    ドラマから日常会話を知ることができる。

    Sherlockはとてもよくできたドラマだった。
    世界中で人気のわけがわかる。

    見逃していた映画もたくさん見た。
    その都度、映画を通して
    心に響くメッセージが届いた。

    映画に使われていた音楽も
    気に入ったものをダウンロードした。

    ああ、自分は芸術が好きだったのだ、と
    改めて思い出す。

    映画を見たり、
    音楽を聴いたり、
    舞台を鑑賞したり、
    写真を撮ったり。

    誰かの評価を気にせずに、
    ただ楽しむことを忘れていたことに
    気づかされる。

    リラックスしているつもりで、
    何時になったら何をしなくちゃ、と
    予定を立てている自分に気づく。

    「保証は何もない」。
    スーパーバイザーが言ってくれた言葉だ。

    夫婦関係も、
    親子関係も、
    恋人同士も、
    友人関係も、
    コンパニオン・アニマルも。

    幸せが永遠に続くという保証は
    どこにも、何もない。

    なのに、人は「関係」を求め続ける。
    なんて勇気がある動物なんだろう。

    マロンを亡くしてからは、
    人と関わるのはとても辛かった。

    スーパーバイザーは
    「たっぷり時間を取りなさい」、と
    勧めてくれた。

    そして、好きな人たちと距離を置くことは、
    お互いを守るためだった。

    悲嘆を奥底に抱えている人を
    100%そのままの状態で
    受け入れられる人は限られる。
    悲嘆は瞬間的に伝染するからだ。

    その瞬間、人はこう言う。
    「元気をだしてね。」
    「だいじょうぶ、乗り越えられるから。」

    けれど、自分で悲劇を乗り越えた人たちは違う。
    何も言わない。
    黙って、ただ、そばにいて、
    そして共感してくれる。

    縁があって家に来た
    4匹の猫たちは
    決してマロンの代わりではない。
    マロンの代わりは、どこにもいない。

    それでも、時々涙する私のそばにきて
    頬を流れる涙に興味を示して
    「だいじょうぶ?」と心配してくれる。

    マロンはこの子たちを
    決していじめたりしなかった。
    生きていたら、きっと、
    迷惑そうな顔をしながらも
    優しく接していただろう。

    マロン、会ったら、その
    ふかふかの体を
    しっかりと抱きしめたい。

  • 許し




    なぜ、私はこんなに悲しいのか。
    マロンがいないからだ。

    彼がいれば、幸せなのか?
    ・・・。

    私の幸せは彼に左右されているのか?
    ・・・。

    私の幸せは、外部の何かに左右されるのか?
    ・・・。

    ふと、この質問が頭によぎったその瞬間、私のハートが重くなり、長い長い間置き去りにしてきた何かを取り戻した。それは強さ、権威、パワー、私自身だった。

    私は彼を許していなかった。
    自分が悲しむことで、彼を許していなかった。
    私がこんなに悲しいのは、マロンがいないからだ、なぜいないのだ、と逝ってしまった彼を許していなかったのだ。

    何ということ!
    何ということ!

    では、悲しみはエゴなのか?

    あの時、逝くことを選んだのは彼なのか、それとも大いなる存在なのか?

    これは聖なる計画の一部なのか、それとも私が撒いた種を刈り取ったのか?

    残酷な宇宙の仕打ちと思っていた出来事は、いったい、何なのか?

    思考が現実を創るなら、私はなぜ、こんなことを望んでしまったのか?

    癒やしが手放すことなら、私はなぜ、いらないフロアランプではなく、よりによって愛するマロンを手放してしまったのか?
    神が我々を創ったなら、我々も神であると言った人がいる。もしそうだとしたら、私からマロンを奪った神を許せない。
    そして、神である私のことも許せない。

    許しとは、踏みにじられたすみれの花が、自分を踏みにじった靴のかかとに放つ芳香である、とマーク・トウェインは言った。

    私は、すみれの花になれるだろうか。
    それとも、もう、すみれの花なのだろうか。