You can be only YOU

  • 最期の時



    最期の夜が思い出された。

    ふと、思った。
    私は、よく頑張った。よく頑張ったのだ。
    私はたった一人で彼を看取った。絶対独りでは行かせない、となぜか理由はわからないが、以前から固く誓っていた。

    彼からひとときも離れたくなくて、実家に電話さえしなかった。トイレにさえ行くことを忘れた。夜中の午前二時十五分に看取って、お葬式が終わって帰宅するまで、一睡もしなかった。というより、眠れなかった。文字通り、私は彼につききりで看取ったのだ。

    よくがんばった、私。よくやり遂げた。
    そして、泣きながら自分をハグした。両手を肩に巻きつけて、泣いた。
    本当によく頑張った。よくやった。
    たった一人で、心細かったね。
    わからないながら、よくやったね。
    動けなくなってしまってから、腕枕をしてあげられた。
    一人で抱えて、柔らかい布団の上に運んであげた。マロンはもう、力が入らなくて、いつもよりずっと、重く感じたね。
    胃腸炎で、痛かっただろうお腹をさすってあげた。お腹や胃の痛そうなところに手を当ててもあげた。
    その間、ずっと心細かった。本当は誰かに一緒にいてほしかった。
    でも、耐えた。たった一人で。
    私、よくがんばったね。
    怖かったね。よくがんばった。
    そして、泣いた。
    後から後から、涙があふれてきた。
    私は自分に厳しすぎたのだろうか。

    あんなことも、こんなことも一緒にしたかった。
    あそこに行って、こんなことをして、もっともっと思い出を増やしたかった。
    もっと食べ物に気を使ってあげていたら、もっと早くアレルギー検査ができる遠くの動物病院に連れて行っていたら、もっと、もっと・・・。

    こんな時、後悔だけが頭を覆いつくす。マザー・テレサは、どれだけ沢山のことが出来るかではなく、小さなことを、心を込めてやりなさいと言っている。どれだけ沢山できたかではない。
    それなのに、もっと行動できたはずなのに、もっと調べたらよかったのに、もっと、もっと・・・。エゴがどこまでも私を責める。
    そうせずにはいられなかった。
  • ラジオ




    マロンがいなくなってから、家は恐ろしく広くなった。
    信じられないほど広くなって、どこで何をしていいかまったくわからなくなった。
    実際には同じ家なのに。

    彼のエネルギーがいかに大きかったか、いかに私の中で大きな位置を占めていたかに改めて気付かされ、愕然とした。どの部屋にも、彼の美しいエネルギーが満ちていた。なのに、実物はいない。どこを探してもいない。

    部屋の空虚感をなくしたいと、ラジオをつけ始めた。音が何かを満たしてくれるかもしれないと思った。

    外出したものの、急に怒りに襲われ、帰宅することが何度も続いた。玄関に入るなり、泣いた。
    スーパーに行けば肉売場に近づけなかった。彼のためにいつも何がいいかな、と彼と一緒に食べられる献立を考えながら選んでいたからだった。魚売り場も、野菜売り場も同じだった。

    動揺して帰宅して、腹が立って、そして号泣した。なぜ彼が逝かなければならなかったのかわからなかった。なぜ、という理由はまだわからなかった。そして、理由がわからない不明瞭さ、不安を、はっきりさせて安心したい自分の中の自分は、猛烈に腹を立てていた。
    ああ、どんなに泣いてもマロンは帰らない。そのとき、朝からずっとつけているラジオから、「いつもあなたのそばにいるよ」という英語の歌が流れてきた。
    ふっと一瞬、怒りを忘れた。

    猫が私の羽布団に粗相をしたある朝には、「残念だね」という英語の歌が流れてきた。せつなくも、ちょっとユーモアがあって助けられた。
    朝ごはんのときに猫が膝に乗ってくることが恒例となったので、去年も使っていたひざ掛けを出してきた。ラジオからは何かの歌が流れていた。マロンを思い出して、何気なくひざ掛けを見ると、彼の白い毛が一本、そこにあった。まだ一緒にいるよ、と教えてくれているようだった。





  • 何のために生きるのか?

     四七日(よなのか、4回目の7日間=28日目)を過ぎても、自分が生きている意味を探し、あの子が逝った理由を探し続けた。どうしても納得がいかなかった。

     自分は何をすべきなのか、これからどう生きていけばいいのか。私のキャリアは、彼が人生の中心にいてこそ培われる予定のものだった。

     なぜあの時だったのか。国道でふらふら歩いていたのを見つけてから3年だった。

     なぜ私がお見取りをする最後の飼い主だったのか。

     私は彼の治療方法や動物病院をどのようにして選択すべきだったのか。

     誰も答えをくれない、決して答えが見つからない暗闇の中を、あてなくさまよっていた。答えはないと、どこかでわかっていた。けれど、そうせずにはいられなかった。そしてさまよいながら、理由や原因がまったくわからないことに対して、神への怒りを猛然と感じた。励ましてくれる友人やヒーラーや近所の人たちに対しての怒りもこれが発端だと気づいていた。

     なぜ神様は私からマロンを奪ったのか?予定外に、こんなに早く。
     私はそんなにダメな飼い主だったのか?
     そんなにマロンにふさわしくない飼い主だったのか?
     私はどうしたらよかったのか?

     神様はニール・ドナルド・ウォルシュが「私はなぜ生きているのですか?」と質問したときに、こう言った。
    「神として生きなさい。」

    そして、同じ質問に、エックハルト・トールは言った。
    「あなたは今のあなたという形になって存在している。それは私(神)があなたを通して私(神)自身を知ることが出来るからです。生きとし生ける物すべてを通して私(神)を知ることができるからです。」

     私が泣いて悲しむから、神は「亡くした悲しみ」という感情を知ることができるのだ。


    あの子がいなくなって初めてわかることがたくさんあった。

    あの子の代わりは決していない。これからも決して現れない。どんなにほかの犬や猫達が可愛くても、彼の代わりなど存在しない。あの子は唯一無二の存在だったのだ。彼が私の中でどれだけ大きな位置を占めていたことか。

    お金を何百億円積んでも、あの子は戻らない。お金なんてその程度のものなのだ。
    広い庭の家があっても、あの子がいなければ意味がない。
    彼がいなければ高原のペットペンションへ行く計画も無意味なもの。

    どうしてこんなことが、彼が生きている間にはわかっていなかったのだろう?



    なぜ、彼がまだまだ生きると思っていたのだろう?
    なぜ、彼を「まだ六歳」と思っていたのだろう?多くの人が言った、「まあ、まだ六歳だったの。若かったのにね。」

    私もそう思っていた。おかしなものだ。誰だって、今日死ぬかもしれないのに。
    朝ごはんを一緒に食べた人が、昼には棺桶に入っていたって何もおかしくない。それが「普通にありえること」なのに、なぜ自分の世界ではそんなことは起こらないと信じて、人は毎日過ごしているのだろう?





  • 宇宙のポジティブさ


    インターネットの動画で有名ブランドのCMを「偶然」見た。
    有名な女優がこんなセリフとともに、絹の布を天へ向けて登っていく。
    過去は美しく見える
    思い出、夢
    しかし、住むところではない
    今こそたったひとつの出口、天に向かって
    そこは天国ではない
    そこは新しい世界
    未来は黄金
     悲しみに打ちひしがれている私に対して、あまりにも早い「肯定的メッセージ」で宇宙に腹が立った。今いる地獄から未来が黄金だと思えるわけがない。そんな簡単に変われたら、誰も苦労しない。

     でも、宇宙は(もしかしてマロンは)あきらめない。スーパーに行くと、売り場に置いてある小さなDVDに食品のCMが流れていた。「偶然」見いっていると、音楽だけが流れていたのに、突然、若い女優がこう言った。
    君がいなくてもこの世界には明日がやって来る
    わかってる。
    そんなこと、わかってる。
    ものすごく腹がたった。
    うるさい。私はそんなに早く変われない。
    初めて味わう膨大な喪失感とともに、悲しみのストーリーから抜け出すことは容易ではなかった。
     私とスカイプしたあるヒーラーはこう言った。
     「食事は何回食べていますか?」

     そう質問されるまで、何回の食事をしているかなんて、気にしてもいなかった。何を食べたのかさえ、覚えていなかった。

    「何か飲んでいますか?」
     飲んでいないことに気づいていなかった。

     「誰か直接会える人に助けを求めましたか?あなたには今それが必要だと強く感じます。」

     誰にも会いたくない、誰にも。スカイプのセッションでさえ、せいいっぱいだというのに。
    今だって、まともに頭が働かず、まともに言葉が出てこない。
    起こったことを受け止めようとするだけで、せいいっぱいなのに、更に誰かに会って話をしろと?
    冗談じゃない。

     私がこのヒーラーに押し付けがましさを感じていたのは「転位」だということもわかっていたが、どうにもこうにも腹がたってしょうがなかった。
     そもそも私は、ヒーリングセッションなど受けたくなかったのだ。
    なのに、「助けを求めなければならない。」と私のエゴが自分に圧力をかけた。
    普通はそうする、そのほうが傷が癒やされる、ヒーリングスクールで助けを求めることは素晴らしいと習ったではないか、助けてくれる人が大勢いるのに孤独でいることはない。そんなエゴが私に勝った。

    孤独でいることは、時に地上の楽園にいるほど穏やかで、自分らしく泣くことができるというのに。







  • 喪失

    信じられない。
    あの子が逝ってしまってから、もうすぐ四十九日が来る。
    信じられない。


    時は歪み、一年、三年経ったかのように感じる日があれば、翌日はつい一週間前のことのように感じる。
    私はいったい、何をしていたのだろう?
    なぜ、まだ生きているのだろう?
    何のために、生きているのだろう?
    宇宙は私に、何をしろと言うのだろう?




    慰めてくる人に腹が立つ。
    よかれと思って他人に言っているが、結局は自分のために言いたいことを言っているだけ。
    悲嘆にくれる人間を受け止めることができず、認めることができず、ありのままでいさせないようにコントロールを始める。

    「元気だしてね。」
    「心に穴が開いたみたいでしょ。」
    「しょうがないよ。」
    「寿命は運命だからね。」

    元気になんてなれないし、心に穴どころか奈落の底に突き落とされたどん底にいるし、しょうがない、運命だと簡単に切り替えられたら、そんな楽なことはない。
    毎日人に会うのが嫌になる。
    この時期、独りでいるほど安全を感じられることはない。



     ペットロス、という言葉も軽すぎる。ペットではなく、コンパニオン(伴侶)だからだ。
     愛する伴侶だからだ。なのに、こんなことを言われる。

    「残念だったね。」
    「早く元気になって。」
    「グリーフ・ワーク(悲嘆を癒やすためのワーク)やって?」
    「ペットロスが重症なんですってね。」

    残念?魂の一部をもぎ取られたようなのに?そんな軽い言葉に「ええ、そうなんです。」などと誰が言えるのか。

    なぜこんなときでさえ、人は「早く」と悲嘆にくれる人を急かすのであろうか。早くしなさい。宿題は終わったの?早くしなさい。食べ終わったらおもちゃを片付けるのよ。早くしなさい。今日はやることが沢山あるのだから。我々の世界から「早くできることは良いことだ」という信念が消えて欲しい。


    あの子を看取った瞬間から、グリーフ・ワークが始まった。やってないとでも思っているのだろうか、これからずっと続くのにマロンが亡くなった事実は消えない、そして悲しみもなくならない、思い出す頻度が減ったとしても。


    愛犬が亡くなって十年以上が経つ知人、愛猫が亡くなって十二年という知人はどちらも、思い出すと今でも泣く、と言っていた。こういった事実は、みな用心して、本当に話をわかってくれると思える相手でないと決して話さない。十年も経つのに、と非難されるのを恐れているからだ。


    ペットロスが重症というのも私には当てはまらなかった。私にとって彼はただのペットではなく息子だった。こんなに愛していたのだから、私にとっては「当たり前」で、重症ではない。当然の悲しみの経過(プロセス)なのだ。

    他人のこういう言葉に傷ついて、悲嘆者はやがて、「誰もわかってくれない。」と自分を閉ざすようになる。泣きたくても泣けなくなり、怒りを出したくても出せなくなる。ただ、「ほっといてくれ」と部屋で泣くようになるのだ。
    なぜ人は、人が悲嘆にくれる邪魔をこんなにもするのだろう?
     決して私を元気づけようとしなかった近所の人が、そっと教えてくれた。
    自分が犬を亡くしたとき、その骨を手放すのに十年近くかかった。その間、いろんな人がいろんなことを自分に言ってきた。

     四足の生き物の骨は、部屋に置かないほうがよい。
     四十九日には骨を収めないと、犬が天国へいけない。
     納骨しないなんて、犬が可哀想だ。
     そのままだと、犬が成仏できない。
     部屋に置いてるなんて、そんなことをしてもろくなことはない。

     人が人をどれだけ傷つけることが出来るのか、改めて驚くばかりだ。
    みな自分勝手に言いたいことを言い、誰一人、「あなたが納得するまで、でいいんじゃない?」と言った人はいなかった。いったい、どうなってるんだ?

    私にも、
    「もう二週間たったの?早いね。」
    「一ヶ月?あっという間ねえ。」
    「四十九日?もう、そんなになる?」
    「もうそろそろ忘れんとね。」
    と言った人たちがいた。
    相手にとって、これらの時間が早いとは限らないことをこの人たちは忘れている。まだ二週間、まだ一ヶ月、まだ四十九日かもしれないのだ。

     彼らに犬を亡くして悲嘆にくれている人の何がわかるというのか。
     その人と犬の関係がどんなものだったか、何を知っているというのか。
     常識にとらわれ、習慣にとらわれ、人の目にとらわれ、相手を尊重することなど思いもよらない。


     そうやって、どれだけの人たちが彼女を傷つけただろう。彼女は無言のまま彼らと戦い、自分の気持ちを尊重して、自分が本当に必要としていることをやり遂げた。
    つまり、十年間亡くなった犬を思い続けたのだ。夫は黙って彼女を見守った。十年は決して長くない、と私は思う。この痛みを知っている人にとっては。